さるべき業縁のもよおせば、
いかなるふるまいもすべし

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし

〔『歎異抄』第13章より(『真宗聖典』634頁)〕

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(「そうなるべき縁がもよおすならば、どのような振る舞いでもしてしまうのがわたしです」)と親鸞聖人は仰いました。
この言葉は、親鸞聖人と弟子の唯円さんとの会話に出てきます。
「聖人の仰せならば、私は、背きは致しません」と言う唯円に、聖人は「では、人を千人殺して来なさい」と命じます。「そのようなこと、私の器量ではできません」と唯円が返せば、「人を殺さないのは、あなたが善い心を持っているからではありません。また、決して殺害はしてはいけないと思っていても、そうなるべき縁がもよおすならば、殺すということもあるかもしれないのです」と聖人は語ります。

この会話を紹介した際、「そうかもしれないけれど、してはいけないことは、やっぱり、してはいけない。人は、強いこころを持っています。だから、してはいけないことを避けることができます」と感想をいただいたこともありました。
そうですね。してはいけないことは、やっぱり、してはいけません。
でも例えば、「国民のいのちを守るため」「テロには屈しない」などという理由をかざして戦争を、争いを肯定する人もいます。国民のいのちを守るために、他国の方々のいのちを殺しています。テロに屈しないための爆撃で、多くの一般市民のいのちを奪っています。ある者を守ろうとするとき、同時に他の誰かを傷つけることが起こっています。

なぜ「人を千人殺してきなさい」と言われたのか。
親鸞聖人の教えを聞いて、「そうだなぁ、私も何をしてしまうか分からない身だなぁ」と内省する(自分を見つめる)ことは大事なことです。しかし、内省を促すだけならば、「他人の物を盗んできなさい」という言葉でもかまわなかったのではないでしょうか? でも、聖人は、「人を千人殺してきなさい」と言われました。そのように言われると、「そのようなことはできません」と言いながらも、憎い誰かの顔が浮かぶものです(浮かびませんでしたか?) 「人を殺してきなさい」という言葉は、私のこころに波風を立てます。ざわめくこころで自分と向き合うことになります。他人事として聞き流すことができなくなります。
だから、「人を千人殺してきなさい」という言葉で言われたのだと想います。

さて、私はどうして「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいも」してしまうのでしょう?
それは、縁を生きているからです。
父と母の縁があって私が生まれ、さまざまな環境で育ち、多くの人々と出会い、出会った人々から影響を受ける。それらの縁をいただいて、私は私となりました。先に私が存在していて、そこに縁が集まってくるわけではありません。さまざまな縁が重なり合う中のほんの一点が私です。
あらためて聖人のことばを噛みしめると、ただ単に「あなたは、いかなるふるまいもすべし」と言っているのではなく、「さるべき業縁のもよおせば」と言われています。そして、「いかなるふるまいもすべし」と。縁があってこその私なのです。
自分一人の力で生きている人はいません。いのちは、個人の所有物ではありません。目の前のいのちだけでなく、無数のいのち・事柄と繋がって、私はいます。
縁をいただいて生きている。他のいのちと繋がって生きている。自分の思い・考え・願いで物事を為してきたつもりでいるけれど、自分でしようと思ってできることなどひとつもありません。

私たちは、嬉しい出来事については「ご縁があって」「おかげさまで」と喜びを表現できます。しかし、悲しい出来事を「ご縁で」とは言えません。でも、悲しい出来事もまた、「ご縁があって」なのです。
「嬉しい出来事」「悲しい出来事」と書きましたが、個人的・一面的には嬉しい出来事であっても、万人にとって喜ばしい出来事とは限りません。
私にとってかけがえのないAさんとの出会いがあったとき、そのAさんと別れる誰かがいるかもしれません。あるいは、先に述べましたが、「国民のいのちを守るため」の行為によって、多くのいのちが奪われるという現実があります。
さまざまな縁が寄り集まって、物事を、人生を織り成しています。「嬉しい出来事です」「悲しい出来事です」と、一面的に見ただけでは語り得ません。
誰かにとって喜びの出来事であっても、そのとき同時に悲しんでいる誰かがいます。私の願いが叶ったとき、その犠牲になっている人がいます。悲しいことに、喜んでいる私は、他を傷つけていることに無自覚です。

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と言われたとき、まだ物事をなしていない、未来のことだと思いませんでしたか? でも、縁をいただいて、今、わたしがここにいます。つまり、今に至るまで私は、「さるべき業縁のもよお」して、「いかなるふるまいも」してきたのです。親鸞聖人の言葉から、今ある私の姿を教えられます。
南無阿弥陀仏