蟪蛄春秋を識らず

蟪蛄春秋を識らず、(けいこしゅんじゅうをしらず)
伊虫あに朱陽の節を知らんや(いちゅう あに しゅようのせつをしらんや)

曇鸞大師『浄土論註』

蟪蛄とはセミのことです。
伊虫とは「この虫」という意味で、ここではセミを指します。

「夏に成虫となるセミは、春や秋があることを知りません。
春や秋を知らないこの虫が、どうして朱陽の節(夏)を知ることができるでしょうか(いえ、できません)」ということを言われています。

残された時間が少ないことを知ってか知らずか、セミはいのちを尽くして鳴き続けます。
セミは、夏に成虫となります。春や秋、もちろん冬がどのような季節か知りません。さて、であるならば夏について詳しいかというと、そういうわけでもありません。
「僕は春や秋のことは知らないけれど、夏のことならまかせてよ」と胸を張れるでしょうか(いえ、そういうわけにはいかないことでしょう)。
「春秋」を識らないということは、自分が必死で鳴いている季節が「夏」だということも分かりません。「季節」と書きましたが、季節のうつろいがあるということも知らないことでしょう。比べることができて初めて「夏だ」「春だ」「秋だ」「冬だ」と知ることができます。夏に成虫となるセミは、春も秋も識らず、夏が来た!ということも知らずに、いのちを終えていきます。
さて、この言葉は、セミのことを語っただけの言葉でしょうか(いえ、そうではありません)。

例えば…そう、私のこと。自我という想いの中を生きている私は、他者(ひと)の想いを知りません。自分を正当化し、自分さえよければいいと思いながら生きている私。他者の声は耳に入らないし、自分の想いとは違う想いに耳を貸すことはありません。
でも、他者を知らないということは、実は自分自身のことも分かっていないのかもしれません。
他者の想いに身を寄せず、他者の悲しみに鈍感な私は、「自我を生きている私だ」という気付きもありません。「私」と書いていますが、「私」ということも知らないことでしょう。他者の想い・悲しみ・いのちを知って初めて「私」を感じるのかもしれません。
(注…本当は、他者の想いや悲しみを知ることなどできません。「あなたのことはよく分かっているよ」などと言うのは傲慢です。でも、他者の想いを感じることに努めることはできるのではないでしょうか。そのような意味で、「他者の想いを知る」と書きました)
南無阿弥陀仏