念仏者は、無碍の一道なり

念仏者は、無碍の一道なり

〔『歎異抄』第7章より(『真宗聖典』629頁)〕

『歎異抄』第7章
念仏者は、無碍(むげ)の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇(てんじんじぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界外道(まかいげどう)も障碍(しょうげ)することなし。罪悪も業報も 感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々。

試訳

「南無阿弥陀仏」の念仏は、何者にも妨げられることのない、ひとすじの大道です。それはどのようなことかといいますと、本願を信じ、念仏申す行者には、天の神・地の神も深い敬意をはらい、悪魔や異教の徒も妨げをすることができません。また、どのような悪業も、その報いに恐れを感じさせることはできません。どのような善い行いも、念仏の力には及びません。だからこそ、何者にも妨げられることのない、ただひとすじの大道であります。と、親鸞聖人はお教えくださいました。

所感

「念仏者は無碍の一道なり」・・・念仏を称えると、碍り(さわり)となるものが無くなるという意味ではありません。「南無阿弥陀仏」が、碍りを無くしてくれるというのであれば、念仏はただの呪文、おまじないになってしまいます。念仏は、苦悩解消の呪文でも、問題解決の方程式でもありません。
私が生きる場は、今、現に生きているこの場しかありません。にもかかわらず、過ぎ去った過去を恨み、未来に自己中心の理想を夢見ます。現在が私の居場所として落ち着きません。
自分の都合や欲望を追求して念仏を称えても、念仏は応えてくれるものではありません。いえ、念仏が応えてくれないのではありません。自分自身のこころが、碍りを作り出しているのです。
『歎異抄』第七章は、念仏を称えれば碍りがなくなるというご利益を述べたのではありません。本願の名号「南無阿弥陀仏」に出遇った聖人が、生活の中で実感したことを述べた言葉です。今まで、自分自身の迷いによって、碍りでないものを碍りとしてしまっていた事実に気づいた。その自覚のことばです。
親鸞聖人は、人間の要求に応えるものを功徳とは言われません。南無阿弥陀仏を称える身になると、碍りはそのままではあるけれど、今までとは違うこころで、ものごとを受け入れられるようになりますと言われます。
碍りと感じるものを抱えながらも、そこに、何か力となるものが得られる。人生の重荷が無くなるのではなく、重荷を背負う力が身につく。
重荷を背負う力が身につくとは、人間である事実を本当にいただくということ。人間である事実とは、苦悩を背負った現実を生きているということ。でも、そこから逃げたいがために迷信に惑います。また、起こっていない出来事に怯えたり、それでいて自分が起こしたことによる報いを恐れたりします。そして、私がした些細な善行を頼りとして生きています。
「天神地祇」を、「天の神・地の神」と訳しました。しかし、困ったときの神頼みというように、私を助けてくれるものを、怪しいと分かってはいても信じてしまう。そういう私自身の迷いのこころを表わしています。
「魔界外道」を、「悪魔や異教の徒」と訳しました。しかし、自分さえ良ければいい、世の中が自分の思い通りになればいいと願う、私の欲望のこころを表わしています。
私を惑わす迷信や、私を恐れさせる悪が、私の外にあるのでありません。天神地祇・魔界外道は、私自身が作り出しています。「天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし」とは、そのことに目が覚めるということです。
親鸞聖人は、臨終の一息まで、念仏を称えられていました。お念仏申して碍りを無くした人生を送られたのではなく、一生を尽くして、自分自身に向き合って生き抜かれました。阿弥陀如来とともに。
南無阿弥陀仏