他力の信心うるひとを

他力の信心うるひとを
うやまいおおきによろこべば
すなわちわが親友(しんぬ)ぞと
教主世尊はほめたまう

〔「正像末和讃」(『真宗聖典』505頁)〕

「阿弥陀さまの慈悲のこころを信じ、他力の信心を得る人を敬い多く慶ぶ人は、私の友であると、教えを説かれる釈尊は誉め讃えます。」と、意訳できるかとは思うのですが、なにかちょっと違和感が。
他力の信心を得るということは、自力のはからいではできません。つまり人間の諸行ではないということ。
人間の諸行ではないのだから、他力の信心を得る人はなく、当然その人を敬うこともできません。
この和讃は、人間目線で語られる和讃ではなく、阿弥陀目線の和讃ではないでしょうか。

「正信偈」において、この和讃と同様の表現をされているのが、

獲信見敬大慶喜

この「獲信見敬大慶喜」が載っている赤本勤行集11頁の四句をみると、

譬如日光覆雲霧
雲霧之下明無闇
獲信見敬大慶喜
即横超截五悪趣

「たとえば日光が雲や霧におおわれても
その下が明るくて闇にならないように仏の真実のこころは いつも澄み切っているのです。
まことの信をえて いのちの真実を見て 敬い大きなよろこびに満たされたならば
その時 迷いの悪道を 願いの力で 横にすみやかにとび越えて たちきるのです」

〔意訳 戸次公正先生(東京教区教化委員会発行「正信偈」より)〕

と、あります。
煩悩の眼で阿弥陀の慈悲を見たならば、一心に信じることは難しく、雲や霧の如き我がこころ(本当に信じていいの? 信じたらどんな良いことがあるの? 念仏だけでいいわけないじゃん!等々)で、慈悲のこころを覆ってしまう。
けれど、阿弥陀の慈悲のこころは、そんな雲霧をものともせず、私を照らしている。
つまり、阿弥陀の慈悲の対象は、すべての生きとし生けるもの。
ということは、信心を獲る人とは、(その可能性も含めて)すべての生きとし生けるもの。
あなたもそう わたしもそう。

和讃の「他力の信心うるひとを」を、他力の信心をえたすごい人! 特定の人! と見るならば、阿弥陀の慈悲から漏れる人を生みだしてしまいます。阿弥陀の慈悲は、すべての生きとし生けるものに及んでいます。
目の前のあなたも、この私も、先往くあなたも、後を生きるこの私も、「他力の信心うるひと」です。
南無阿弥陀仏

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