弘誓のちからをかぶらずは

弘誓のちからをかぶらずは
 いずれのときにか娑婆をいでん
 仏恩ふかくおもいつつ
 つねに弥陀を念ずべし

娑婆永劫の苦をすてて
 浄土無為を期すること
 本師釈迦のちからなり
 長時に慈恩を報ずべし

〔「高僧和讃(善導和讃)」(『真宗聖典』497頁)〕

試訳

阿弥陀如来の本願力をこうむることなくして、
いついかなるときに、この悩み多き娑婆世界から出ることができましょうか。
阿弥陀如来の本願力のご恩を深く長く思いめぐらして、
つねに称名念仏するばかりであります。

いつ果てるともわからぬ娑婆世界の苦難の歩みをしながら
阿弥陀のひらかれた浄土に生まれられることを喜ぶ身となれたことは、
釈尊のさとりをひらかれ、法をお説きくださったおかげです。
長きにわたり、釈尊の、阿弥陀如来の恩徳を想い、称名念仏いたします

所感

「娑婆永劫の苦をすてて」…この娑婆世界にあって、先の見えない辛苦困難を“すてる”とは、
正に“捨て去る”こと、つまり さとりの境地に達すること。あるいは、「この辛苦困難あっての娑婆世界こそ私の生きる世界だ」というところに立って生きる者となること。そのどちらかであり、凡夫の身(私)が立ち得るのは、後者しかない。
今起きていることをなかったことにしたり、今起きていることをすべて解決させたり、そういうことはできない。今起きていることのうえ(道)を歩むしかない。
この道を、念仏と共にあゆまん。
南無阿弥陀仏

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