つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるる
つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるる
〔『歎異抄』第6章より(『真宗聖典』628頁)〕
妹の結婚式のときの光景が目に焼きついています。バージンロードを歩く妹と父。結婚式の前には「恥ずかしいな」などと言っていた父も、どこか嬉しそう。バージンロードの先で待つ新郎に娘を託し、自分の席に着く父。目にはうっすらと涙が。嬉しい想いと淋しい想いが入り交じった涙。そのとき「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるる」という言葉が聞こえてきました。
妹は、伴うべき人と出会い、結婚式の日を迎えました。妹が新郎と手を取り合い、つくべき縁を迎えたそのとき、父との、母との、離れるべき縁も生じました。つくべき縁と離れるべき縁は、多くのいのちと絡み合いながら、同じ瞬間(とき)に起こります。喜びと悲しみが同時に起こる縁の複雑さは、嬉しさと淋しさの入り交じる父の涙に凝縮されていました。人と人との関係は、出会いと別れの縁のなかにあります。伴う縁をいただいたならば伴い、離れる縁があれば、離れる。
教えの言葉を、自己関心だけで聞いたならば、「出会いの縁は嬉しいけれど、別れの縁は淋しいな、嫌だな」という感傷で終わってしまいます。感傷は教えではありません。
お釈迦さまは「縁起の道理」を説かれました。すべての物事・事柄は縁によって起こる。すべては縁によってつながっている、と。私があなたと出会えたそのとき、あなたとの別れに涙する誰かがいる。出会いと別れ、喜びと悲しみ、相反するかのような出来事が同じ瞬間に起こるのは、私のはからいを超えたつながりの中を生きているから。
親鸞聖人の出家得度も、教えとの出遇(あ)いを求める反面、父や母との別れという悲しみと切り離して考えることができません。聖人自身、師である法然上人との出遇い、南無阿弥陀仏の念仏との出遇いの背景に、別れや悲しみがありました。その痛みを知る聖人は、教えを求めて自身を訪ねる人びとのなかに、別れや悲しみを感じていました。目の前にいる人を、弟子ではなく、ともに法を聞く縁をいただいた仲間として見ていました。
同じ瞬間に起こる縁は、「出会いと別れ」ばかりではありません。
私が、目の前のいのちを守ろうとした瞬間、同時に、そこから漏れるいのちを傷つけているという現実があります。例えるならば、植物を育てる際、ひとつの植物の成長を助けるために、周りの草や実を間引かなければならないことのように。
大切なものを守るため、犠牲になっているものがある。見方を変えれば、あるものの犠牲によって、私が守ろうとしているものが保たれているのかもしれません。
私は、「つくべき縁をいただいた」いのちや事柄とだけ伴っているのではありません。すべてのいのちや事柄と、「つくべき縁」「はなるべき縁」をいただきながら生きています。
南無阿弥陀仏