仏法不思議

いつつの不思議をとくなかに
 仏法不思議にしくぞなき
 仏法不思議ということは
 弥陀の弘誓(ぐぜい)になづけたり

〔「高僧和讃(曇鸞和讃)」(『真宗聖典』492頁)〕

試訳

五種の不思議(衆生多少不可思議・業力不可思議・竜力不可思議・禅定不可思議・仏法力不可思議)の中でも最高の不思議は仏法力不可思議です。
なぜかというと、凡夫がたすかる弥陀の本願が説かれているからです。「不断煩悩得涅槃」が不思議なのです。
凡夫のおもいはかることのできないところで、凡夫のたすかる本願が誓われ、たすけられてもそれを知らざるほどに広大な力がはたらいている。
それを不思議というのです。
・・・「不思議」とは、目の前にあるものが無くなったり入れ替わったりして「わぁビックリした!!」が不思議ではなくて、衆生(人間)の思いはからいを越えて、阿弥陀如来から「南無阿弥陀仏」の念仏を回向されている(いただいている)ゆえに不思議なのです。

浄土真宗に帰すれども
 真実の心はありがたし
 虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて
 清浄(しょうじょう)の心もさらになし

〔「愚禿悲歎述懐和讃」(『真宗聖典』508頁)〕

試訳

浄土真宗に帰依しました。阿弥陀如来のすくいを頼りとしてまいります。
真実に帰依したけれど、その帰依した真実によって照らし出されたのが、真実など一点も無い私の姿でした。
阿弥陀如来は、清浄にして真実なるものである。その清浄真実なるものが私にはたらくとき、私の不実であり煩悩に汚れている姿がはっきりと見えます。
浄土真宗に帰依したおかげで、私に真実の心がなかったのだということが知らされました。

無慚無愧(むざんむき)のこの身にて
 まことのこころはなけれども
 弥陀の回向の御名(みな)なれば
 功徳は十方にみちたまう

〔「愚禿悲歎述懐和讃」(『真宗聖典』509頁)〕

試訳

「慚愧(ざんき)なきを畜生と名づく」(『涅槃経』)
「慚」も「愧」も、どちらも〈はじる〉という意味です。「慚」は内に向かって自らをはじること。「愧」は他者に対して自らをはじることであると釈尊は説きます。
真実の心などない無慚無愧である私に、阿弥陀如来は「南無阿弥陀仏」の念仏を回向してくださいました。阿弥陀如来の光明は、無慚無愧の私を含め、すべての人々に行き渡っています。
・・・ご自身の内面を見つめ、阿弥陀如来に出遇われた親鸞聖人の姿勢が強く表現されている和讃であると感じました。

所感

ある日の聞法会で、以上3つの和讃のお話をして、お茶の時間に・・・
毎回参加してくださっているおじいちゃんが、お話を切り出してくださいました。
「今日は私の誕生日でして、94歳になります。正直、こんなに長く生きられるとは思っていませんでした。不思議です。しかも今日、自分の誕生日に聞法会が重なって、みなさんにお会いできて、みなさん私が今話していることを聞いて下さって、不思議で、有り難い気持ちでいっぱいです。不思議がいっぱい積み重なって、今日という日を迎えられました。みなさんありがとうございます」
その他にも、戦前・戦中・戦後の話をしてくださいました。東京の発展に尽くされた人生です。一緒に聞いていた小5の娘も、おじいちゃんの熱弁を聞いていて、「大事な話をきかせてもらいました!!」と感動していました。
今日の話が「不思議」についてだったから、おじいちゃん「不思議」を連呼された、のではないのです。おじいちゃん、お話はほとんど聞こえていないのです。にもかかわらず、「不思議」について語られ始めたのでビックリしました。おじいちゃんは、西蓮寺寺報を道すがら手に取ってから、聞法会に来て下さるようになりました。
おじいちゃんの姿を見ていて、まさに「仏法不思議」を思いました。
聞法会の場で教えを語る以上に、姿そのものが教えを表わしています。だから、聞法の場とは教えに出遇う場であり、人に出会っていく場として大事にされてきたんだなぁと感じました。
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