宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年
立教開宗八百年慶讃テーマ

南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう

テーマの願い

私は、この地、この時に生を受けている。
このことを精いっぱい尽して生きたい。
悩み、苦しみは私に押し寄せてくる。
でもそれは「生きること」をも奪うものではない。

私の心の奥底にある「生きたい」という声に耳を澄まそう。
その時、私に届けられている声に気づく。
それは私を呼ぶ声、
南無阿弥陀仏。

仏の名(みな)を呼ぶことは、仏の呼び声を聞くこと。
その呼び声の響きの中で、
人と生まれたことの意味を仏にたずねていこう。

私に先立って生きた人たちと、
同じ今を生きる人たちと、
これから生まれてくる人たちと、
そのこと一つをともにたずねていこう。

種から芽が出て花が咲き、花は枯れても種が残りまた花を咲かすように。

趣旨

1. なぜ「南無阿弥陀仏」なのか

人は、それぞれの人生で、悩みや苦しみ、孤独を抱えながら生きています。苦しみや悲しみ、そしてまた喜びがある、そのことが人と生まれたということです。悲喜こもごもの人生の中で、私たちは悲を捨てて喜を選ぼうとしますが、悲喜に惑う私を受けとめてくださるのが阿弥陀仏の摂取不捨のはたらきです。
いつでも、どこでも、だれでもできる、普遍の道である念仏。それは、この世に苦しみや悲しみのない人はいないということであり、あらゆる人に仏の呼び声が届いているということです。その呼び声を聞くとき、孤独であった私は、すべての人とつながっていることを知らされるのです。だからこそ、真宗門徒は、念仏によって同朋としてのつながりを生きてきたといえるのではないでしょうか。
宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要をお迎えするにあたり、「南無阿弥陀仏」とお念仏申すことの意味をともに確かめたい。その願いから、テーマに「南無阿弥陀仏」を掲げました。

2. 人と生まれたことの意味をたずねていこう

「人と生まれた」ということを大切にしました。
生きる意味をたずねていくだけでは、自分が納得できる「意味」探しになります。私たちの方から意味をつかもうとするとき、そこには優劣に基づいた価値の有無が生まれてきます。一方で、「人と生まれた」という言葉が表すのは、老病死するいのちであり、誰とも代わってもらうことのできないいのちです。そして他との関係性の中にあるいのちです。そのことをいのちの事実から教えられます。
親鸞聖人は「人間」という言葉に「ひととうまるるをいふ」と左訓されています。親鸞聖人も、聖人の教えにふれた人びとも、人として生まれたのは、関係性を生きる者として生まれたということであると教えてくださっています。その教えをいただくならば、生まれた意義と生きる喜びは、他者(ひと)との関係性において見いだされます。自分ひとりの救いではなく、他者とともなる救いの発見があるのです。人と生まれた意味をたずねるということは、南無阿弥陀仏によって呼び覚まされる関係を生きるということです。両手を合わせ南無阿弥陀仏と申すその中に、どれほど多くの縁があることか、どれほどの罪業があることか。そのことをたずねていくことです。

3. 念仏によっていのちが響き合う世界(サンガ)へ

十人いれば十通りの、百人いれば百通りの考え方や生き方があります。他者とすべてをわかりあうことはできません。それぞれ異なった考え方や生き方をしている者どうしがともに生きていることは、とても不思議なことです。
けれども、私たちにはともに生きられない現実があります。戦争、差別、いじめ、虐待、ハラスメント…。私たちにはいのちの尊厳を奪い合ってきた歴史があり、今もなおその現実を抱えています。ともに生きているのに、ともに生きることを拒む私たちのすがたがあります。
2016 年 7 月 26 日に起きた相模原障がい者施設殺傷事件は、人びとの心に大きな傷を残しました。それは、多くの障がい者の方々が殺されたということにとどまらず、加害者が語る犯行理由に共感する多くの意見がSNSに掲載されたということです。社会的弱者を排除の意識で非難の対象にする。現代社会に沈殿する歪んだ意識がもたらした悲劇です。加害者は、自己肯定感を持てない社会の風潮の中で、価値のない存在を作り出してでも自分を立てようとしたのではないでしょうか。
人は、自分を蔑む必要のない真の居場所があることによって、自分を獲得し、他者とともに生きる世界を持てるのです。
ともに生きているという事実は、一人ひとりの差異(ちがい)を認め合う世界に出遇うことによって明らかになります。差異が障りとならない世界は南無阿弥陀仏によって開かれるのです。私と他者との関係は、念仏のはたらきによってこそ開かれます。私とあなたといのちが響き合う世界。それこそ、いつでも、どこでも、だれにとっても、念仏のあるところが居場所なのです。
念仏は、私が称えるものではなく、「汝、わが名を称えよ」と阿弥陀仏の呼びかける声です。その南無阿弥陀仏の声を聞くとき、自分の存在が確かめられるのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏がともにあるからこそ、「私はここに居ていいんだ」と安心できるのです。

4. 念仏申す身となる

「一一の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。」

(『仏説観無量寿経』『真宗聖典』105 頁)

阿弥陀仏の大悲は、倦(ものう)くことなく常に私を照らしています。大悲から漏れる者はいません。親鸞聖人には、法然上人との出会いによって、苦悩の有情として、私もあなたも如来から念仏申す人になってほしいと願われている存在なのだといううなずきがありました。そして、この念仏の道を後の人びとは連綿としてたずねてきたのです。
親鸞聖人の御誕生と立教開宗を慶び讃嘆(さんだん)するということは、親鸞聖人の教えによって「南無阿弥陀仏」と呼ぶ声がこの私に届き、わが身が念仏申す身となることができたことを慶ぶことです。その慶びは、迷い悩み苦しみ、罪を重ねているわが身の悲しむべき事実を知るということでもあります。懺悔(さんげ)から「ともに」ということが始まり
ます。
親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の意味を学問や教養としてさぐるようなあり方ではなく、教えを聞き続ける姿勢の中に、自身の思いを超えたことと出遇える「時」があることを大切にされてきました。
慶讃法要を機縁として、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の呼び声を聞くことの大切さが思われます。前回の慶讃法要の「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」という呼びかけから50年を経た今、あらためて念仏の教えから「ひととうまるる」ことの意味をたずねていきたいのです。