本願力にあいぬれば
本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし
〔「高僧和讃(天親和讃)」(『真宗聖典』490頁)〕
でっかいもの
でっかいものを 作ろうとして
はじめて 知った
でっかいものを作るには
それよりでっかい足場を組む作業が必用な事
(羽海野チカさん 『ハチミツとクローバー』9巻より)
たとえ何年の人生であっても、
たとえどのような生涯であっても、
今、築いている人生は「でっかいもの」。
その「でっかいもの」を作るために、
「それよりでっかい足場」が組まれていました。
私がいのちを尽くすために、
私は、一人では生きていけない。
私は、一人では生きていない。
目の前の人とも
周りの人とも
出会ったことのない人とも
私はつながっている。
好きな人がいて
嫌いな人がいて
何とも感じない人がいて
みんながいて、私が私となりました。
私一人の人生のために
どれだけ「でっかい足場」が組まれていたことだろう。
年が明けて、願い事に懸命な私は、
安全を願わずにいられない。
幸せを願わずにはいられない。
家族や身内がいるから「家内安全」を願い、
そんな温かい家族を支えたいから、今の仕事が好きだから「商売繁盛」を請い、
家族の健康のため、自身の健康のため、「無病息災」を祈る。
願い事の尽きない私です。
けれど、
願い事をするに先立って、
私に願いを起こさせる家族や仲間、
仕事や世界やいのちがある。
そんな家族や仲間や仕事や世界、
そしていのちに囲まれて、
今、私はいる。
私が他のいのちを想うように、
私も他のいのちから想われていた。
私が他のいのちの幸せを願うように、
私も他のいのちから願われていた。
こんなに想っているのになぜ伝わらない
こんなに願っているのになぜ叶わない
こんなにがんばっているのになぜ実らない
私の願いが叶わないとき、
「むなしい」とつぶやきたくなる。
けれど、
願われている私なんだと気づいたとき、
願いが叶わないことを「むなしい」というのではなくて
願いに気付いていないからむなしかったんだなぁと微笑む。
むなしさや はかなさを、
つらさや 悲しさを生きる私。
そんな私のことを願うはたらきは、
私を私のままに受けとめていました。
功徳や利益(りやく)は、
善い行いやお金の対価として貰うものではなくて、
縁のなかを生きているという
すでにその事実が功徳であり利益。
功徳や利益は、
つらさ悲しさ苦しさを、無くしてくれるはたらきではなくて
つらさ悲しさ苦しさを、すべてひっくるめてのいのちなんだと
呼びかけているはたらき。
お汁粉もきな粉餅もクッキーも、
甘さを引き立たせてくれるのは、塩。
砂糖ばかりどんなに入れても、
ついに甘さは感じられない。
つらさ悲しさ苦しさは、
有るより無いがいいけれど、
生きることを嫌悪する私の思いに反し、
爪や髪やヒゲは伸び、
お腹が空いたと腹は鳴り、
痛めた傷を治癒しようと、
いのちは懸命に生きている。
果たして「私」とは どこにいるのだろう
願い事が成就しますようにと、
宝物を求めて手を合わせるけれど、
合わせる手の中にすでに大切なもの、
南無阿弥陀仏が、
功徳の宝海が満ち満ちている。
海は、
きれいな河川も 濁った河川も、
分け隔てせずに受け入れる。
阿弥陀如来の慈悲のこころは、
燃えさかるような煩悩を持った人も 煩悩でまなこ濁った人も、
えらばず きらわず みすてずに、
あきらめることなく常に私を照らしている。
南無阿弥陀仏