汝、起ちて更に衣服を整うべし

汝、起ちて更に衣服を整うべし

〔『仏説無量寿経』より(『真宗聖典』79頁)〕

「汝(なんじ)、起(た)ちて更に衣服(えぶく)を整うべし」とは、説法中のお釈迦さまが、弟子の阿難に投げかけられた言葉です。
「阿難よ、あなたは立ち上がり、人生を今一度見つめなおしなさい」
 座って聴聞していた阿難さんを立ち上がらせるために言われたのではありません。阿難は、志があってお釈迦さまの弟子となり、聴聞を始めたはずでした。にもかかわらず、いつの頃からか、その志は薄れ、お釈迦さまのお話のすべてを分かったこととして聴聞していた阿難に、お釈迦さまは注意を促したのです。
  
 人は、自身の人生経験を通して、それぞれに答を持ってしまいます。自分なりの答を。「起つ」とは、自分なりの答を捨てて、まっさらな気持ちで人生を歩みなさいという促しの言葉です。
 経験を通して身につけたものは貴重であり、財産です。しかし、身につけたものを答にしてしまい、自分こそ正しいという思い込みが争いを生み、他者(ひと)を傷つけることもあります。また、答を持ってしまうことによって、「これ以上すべきことはない」「これ以上しても無駄だ」と決めつけて、自身の歩みを止めてしまうこともあります。
 自分なりの答に満足をしてしまうと、そこに安住してしまいます。安住するだけで終わるなら、その人自身の問題ですからかまいません。けれど、安住する者は、やがて他者を見下し始めます。「私はこれだけのことを身につけている。あなたは全然ですね。まだ迷っているのですか」などと。
 今の世の中、仏教に答を求めようと、仏教講座や仏教セミナーに人が集まります(お寺には集まりませんが)。どのような経緯、どのような場でお釈迦さまの教えに出会おうとも、教えそのものはとても大切なものです。しかし、教えを聞いて、自身を振り返ることなく、聞いただけで満足し、自分にとって都合のいい受けとめをしたならば、お釈迦さまの教えを、自分の答の補足に用いただけのことになります。
 お釈迦さまが阿難に「起て」と言ったのは、人生に座り込み(自分なりの答に安住し)、自身を問うことをやめてしまった姿を、阿難に見たからです。
 お釈迦さまの教えは「私」を映し出す鏡です。阿難の姿は、この「私」自身の姿でもあります。お釈迦さまは、はるか昔に、この「私」のことをお見通しで、教えを説いていてくださったのです。 
「衣服を整える」とは、身だしなみを整えるという意味だけではありません。「衣服」とは、私が生活している社会・環境・習慣も意味します。身に付けているものだけでなく、身に受けているものも意味します。つまり、縁によって私がいるという事実に目覚めなさいという呼びかけです。