経は経なり 経は鏡なり

経(きょう)は経(けい)なり
経(きょう)は鏡(かがみ)なり

善導大師『観経疏(かんぎょうしょ)』

経(きょう)といふは経(けい)なり。

善導大師は、お釈迦さまの教え(経・きょう)を、人生における「経(けい)」であると教えてくださっています。
「経(けい)」とは「縦糸」のことです。経は、人生における縦糸である、と。さて、どういうことでしょう。
織物は、縦糸と横糸から成ります。先ず、縦糸がしっかり張ってあって、そこに横糸を通していきます。織物の表面に表われるのは、横糸でデザインされた部分でしかありませんが、その奥に縦糸があるからこそ、織物は彩り鮮やかに出来上がります。
私の人生にも、お釈迦さまの教えという縦糸が、しっかり張られています。教えという縦糸に支えられているからこそ、日々の生活という横糸を通すことができます。だからこそ、人生という織物を完成させることができます。
日々の生活、楽しいことや幸せなことがあれば、苦しいことやつらいこともあります。横糸の模様が思うように表現されるときもあれば、思い通りに表現されないときもあります。でも、たとえ横糸がどのような状態であろうとも、縦糸は、しっかりと横糸を受け止めています。
一生をかけて作り出す織物は人それぞれ違います。ひとつとして同じものはありません。私の人生という織物、どのような模様が出来上がることでしょう。

経教(きょう)はこれを喩(たと)うるに、鏡のごとし。

もうひとつ、善導大師は、お釈迦さまの教え(経教)を鏡に喩えられています。経教は、私を映し出す鏡である、と。

かつて、このようなことを言われたことがあります。
「お釈迦さんがいた頃と今とでは、あまりに環境が違いすぎます。お釈迦さまの時代にはなかったような問題が社会には満ちていて、教えが時代に追いついてないですね」
私は、そうは思いません。
確かに、人間を取り巻く環境は、お釈迦さまが教えを説かれていたころとは比べ物にならないほど変化したのかもしれません。だからといって、教えが時代に追いついていないのではありません。
日常鏡を見るとき、自分のお気に入りのところに目が行くのではないでしょうか。あるいは、良く見えるように体裁を整えます。私は、鏡を見るときと同じような気持ちで経教を学んではいないでしょうか、聴聞してはいないでしょうか。
人は、いつの時代も、艱難辛苦を生きています。人と人とが関係を結んで生きているのですから当然のことです。温もりのある関係もあれば、苦しいつながりもあります。それが、縁を生きているということです。お釈迦さまは、「縁起の道理(縁を生きている私であること)」を説かれました。聞いてホッとする教えもあれば、聞くことがつらい教えもあります。でも、共に私の姿を、事実を語っているだけです。耳障りの良い言葉には頷(うなづ)き、受け入れ難い言葉は拒否していては、私の本当の姿は見えません。
お釈迦さまの教えが、艱難辛苦を取り除くものと思っている方には、教えが時代に追い付いていないと感じることでしょう。けれど、お釈迦さまの教えは、いついかなる世においても、変わらず私を映し出しています。
また、鏡は、光を集めて照射することによって、鏡に向かっている人や物を映し出します。つまり、「鏡」のたとえは、「光に照らされている私」であることも表現しています。経教という鏡は、常に私を照らしています。いつも、どこでも、誰もが、経教に(阿弥陀の大悲に)照らし出されています。
お釈迦さまの教えは、遠いインドの国で遥か2500年前に説かれた、異国の昔話ではありません。私の足下を、私に先立って照らしている教えです。

経は経なり 経は鏡なり

お釈迦さまの教えは、人生の縦糸として、私を支えています。
お釈迦さまの教えは、人生の鏡として、私を照らし、映し出しています。
南無阿弥陀仏

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