悲しきかな、愚禿鸞

誠(まこと)に知りぬ。
悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)、
愛欲の広海に沈没し、
名利の太山に迷惑して、
定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、
真証の証に近づくことを快(たの)しまざることを、
恥ずべし、傷むべし、と。

〔『顕浄土真実教行証文類』信巻より(『真宗聖典』251頁)〕

(試訳)

まことに知りました。
悲しいことに、この愚禿親鸞は、
愛欲の広い海に沈み没し、
名利心の大きな山に迷い惑って、
阿弥陀仏の浄土に入ることが約束されていることを喜ばないし、
真実のさとりに近づくことを快しいとも思わない。
恥ずかしいことです、傷ましいことです、と。

この文章は、『顕浄土真実教行証文類』(以下『教行信証』)内に綴られる、親鸞聖人自身の言葉(御自釈)です。
親鸞聖人は、自身を「愚禿鸞」と名告(なの)られています。
「愚」は、愚か者。
「禿」は、道を求めるこころもないのに、生きるため食べるために出家した、形だけの僧侶を意味します。
つまり、自身のことを「愚かで格好ばかりの坊主である」と告白しているのです。それだけを聞くと、卑下や謙遜のようにも聞こえますが、「愚禿」と名告る背景には、自分を見つめる厳しい眼があります。

「愛欲の広海」…愛欲とは、性欲だけを指すのではなく、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)も含めた欲望のことです。
「あれが欲しい」「これが欲しい」という貪(むさぼ)りの果てに、欲しいものが手に入らなければ、思うとおりにならなければ、怒りにまかせます。「あいつが悪い」「こいつのせいだ」「どうして私は報われないんだ」と。貪りと怒りが満ち溢れている私のこころ。自分で作り出している欲望の広海に、自ら溺れ自ら没しています。

「迷惑の太山」…「迷」は道に迷うこと。「惑」は行き場がなくなり戸惑うこと。
こんにち「迷惑」というと、他者からかけられることのように表現します。けれど、本来は違います。「迷惑」とは、自らの思いに迷い惑うこと。他者からかけられるものではありません。自分で迷い、自分で惑うのです。
「名利の太山に迷惑して」とは、「名を馳せたい」「有名になりたい」「高い地位が欲しい」などと、大きな山よりも大きな名利心で、私自身が人生に迷い、どこに行けばいいのか惑うている姿を表しています。 

悲しいことです。
愛欲の広い海に沈没して、
名利心の太山に迷い惑う親鸞です

愛欲の広海に溺れ、名利心で行き先を見失っている「衆生です」とは親鸞聖人は言いません。「愚禿鸞」、つまり自分自身の有りようを告白しています。
親鸞聖人は、このような自身の姿を、どうして堂々と告白できるのでしょうか。
それは、阿弥陀如来に出遇われたからです。
私はこのご自釈を、親鸞聖人の自己内省(自分を見つめて省みる)の言葉であると受け止め、そこで留まっていました。けれど、そこで留まっていては、他人事で終わってしまいます。
親鸞聖人は亡くなる直前まで『教行信証』を書き直されていました。つまり、一生をかけて伝えたいことを書き綴られた書物が『教行信証』なのです。そこに著したのは、自己内省して自身を反省した弁ではなく、自己のあるがままの姿、自分が今まで生きてきた姿です。自分の姿を偽らず飾らず見つめるなかで、私を照らし出している阿弥陀如来の慈悲心を描き出しているのです。

そのうえで、「自分は阿弥陀如来の光明を感得した!」と安住するのではなく、
阿弥陀如来の浄土に入ることが約束されても喜べない、
真実のおしえに触れても快(たの)しめない。
そう綴られます。

阿弥陀如来に出遇われたのに、なぜ?
私たちは、定聚に入ることが喜びであり、真証の証に近づくことが快しみだと思っています。また、それがさとりだと考えています。しかし、本当にそのような身になれたとしても、喜べないのです。快しめないのです。
愛欲が叶えば、名利心が成就すれば、私は安心・満足するのでしょうか。いえ、しないのです、できないのです。更なる愛欲に溺れ、もっと大きな名利心が芽生えてきます。阿弥陀の浄土に生まれることができますよと言われても、「どうしてそんなことが言えるんだ?」「より素晴らしい世界があるのではないか?」「がんばっている私だけでなく、どうして他の奴等も阿弥陀の浄土に生まれるんだ?」と、疑惑が、貪欲が、瞋恚(怒り)が生じます。

「誠に知りぬ」
“自身の愚かさを知った”のではありません。阿弥陀を疑い、阿弥陀から逃げている私をも、阿弥陀如来は包んでいる。その真実を知ったのです。だからこそ、「ありがたい」と感謝するのではなく、「恥ずべし、傷むべし」という自信が感じた痛みを告白されたのです。
親鸞聖人の告白が、現代(いま)に伝わり、現代に響いているのは、自分自身に出遇い、阿弥陀如来に出遇った人の言葉だからです。
親鸞聖人は、私 愚禿親鸞が阿弥陀の救いの中にあるのだから、誰もが阿弥陀如来に救われる(遇える)と確信しています。

南無阿弥陀仏