あなかしこ あなかしこ
蓮如上人の「御文(お手紙)」は、「あなかしこ あなかしこ」で終わります。
あるご法事でのお話。
「あなかしこ~ あなかし~こ~」と「御文」を拝読し終えると、お参りにみえていた方から「副住職、“あなかしこ”ってなんですか?」と尋ねられました。
想定外の質問にドキッとしました。
「えぇと、“南無阿弥陀仏”とお念仏称えるときのお気持ちです」と、答えになっていない応えをしてしまいました。
それまで、「御文」を現代語に訳す際、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と書いていました。
「あなかしこ」に内包されている おこころとしては間違ってはいないと思うのですが、自分なりに そういただいて「南無阿弥陀仏」と書くのと、自分の中でいただけてもいないのに「南無阿弥陀仏」と書くのでは、まったく違います。質問に応えたときの私はあきらかに後者です。
さて 「あなかしこ」とは…
「あな」は、「あぁ!」「あれ!」「まぁ!」「なんと!」という感嘆詞・感動詞です。
「かしこ」は、手紙の最後に書く「かしこ」です。「謹んで申しあげます」といった意味です。とはいえ、メールが普及した現代(いま)、手紙を書く人も、ましてや「かしこ」と書いて手紙を終える方もどれだけいらっしゃることでしょう。
つまり、「謹んで申しあげます」という謹みの気持ちが、さらに(あな)強調されているのです。
『御文』を書かれた蓮如上人としては、
「親鸞聖人の教えをいただき、聖人の教えやお気持ちを、謹んであなたにお伝え申しあげます」という気持ちがあったことだと思います。ですが、「謹んで“あなたに”お伝え申しあげます」というだけでは留まらないことと思います。
ご法話の席で、一番の聞法者は誰だと思いますか?
一番の聞法者は、お話をしている人です。お説法をしているのですが、聴衆に向けて話しているのではありません(いえ、話してはいるのですが)。口に出して話すということは、口の一番そばに耳がある人、つまり自分が真っ先に聞き手となります。話すには、教えに、そして自分に向き合わなくてはなりません。
話し手でありながら、かつ聞き手でもあるのです。もっとも教えに向き合わなければならない人物なのです。
では、お手紙の書き手は、誰に向けて手紙を書いていると思いますか?
一番の対象は、手紙を差し上げる方ではなく、書き手自身だと思います。手紙は、相手に対する思いやりの気持ち(励まし・注意・感謝・お礼等々)の気持ちを表現します。自分の気持ちと向き合った上で相手に向かうことが、手紙を書くということです。自分の気持ちと向かい合わなければ、手紙は書けません。
蓮如上人の「御文」は数多くありますが、それぞれ誰に宛てての「御文」なのか、だいたい分かっています(想定されています)。
確かに、それぞれの方に対して、親鸞聖人の教えをお伝えしたい気持ちいっぱい(あなかしこ)にお手紙を書かれているのですが、それは同時に、蓮如上人自身が教えに、自分自身に真向かいになることでもあります。
蓮如上人は、本願寺8代目です。
本願寺9代目は、ご子息の実如上人が継がれるのですが、自分が蓮如上人の後継ぎであることにプレッシャーを感じる実如上人は、父蓮如にその気持ちを打ち明けます。
すると蓮如上人は、ご自分が書かれた「御文」の写しを実如上人に渡し、「ここに親鸞聖人の教えの大事なことが書き綴ってあります。これを読んで聖人の教えを理解し、人々にお伝えなさい。そうすれば大丈夫です」と言われたそうです。
えらい自信家だなぁと思われるかもしれません。私もそう感じました。しかし、「私の書いた物こそ正しい」という思いで「御文」を託されたのではありません。蓮如上人自身が、ご自分の書かれたお手紙の中に、聖人の教えや阿弥陀如来の慈悲のおこころを感じ取られたのだと思います。
蓮如上人の「御文」は二百数十通あると言われています。「御文(お手紙)」と言ってはいますが、布教のためのお言葉です。それを二百通以上書かれるということは、自分自身の中でのいただき、伝えたいというエネルギーがなければ書けません。「御文」の内容云々以前に、それだけのお仕事をされた背景にある蓮如上人のお気持ちを感じなければいけないと思います。
「あなかしこ」には、「謹んで“あなたに”お伝え申しあげます」という気持ちと共に、「阿弥陀如来の大慈悲心、親鸞聖人の教えを、この蓮如、有り難くいただきました」という感謝の念が込められているように感じられます。
そのように感じられてこそ、「あなかしこ」が「南無阿弥陀仏」と聞こえてきます。
あなかしこ あなかしこ