かなしきかなや道俗の
かなしきかなや道俗(どうぞく)の
良時吉日(りょうじ きちにち)えらばしめ
天神地祇(てんじんじぎ)をあがめつつ
ト占祭祀(ぼくせん さいし)つとめとす
〔「愚禿悲歎述懐和讃」(『真宗聖典』509頁)〕
試訳
今の世を生きる僧侶も世間の人々も、
良い時・吉日を選ぶことに囚われて、
天の神・地の神をあがめながら、
占いや祭祀に努めています。
なんともかなしいことです。
所感
いつの世も、人は吉凶禍福に囚われているものです。まだ見ぬ未来、見通せない将来に対しての不安の表われなのかもしれません。
親鸞聖人は、なにを「かなしきかなや」と嘆いておられるのでしょう。
「僧俗共に、吉凶禍福に囚われて、自身の幸福追求や、不安を取り除くために、天の神・地の神へのお願いごとに努めている」。そのことを「かなしきかなや」と嘆いているのでしょうか? でも、それだけではないような気がします。
聖人自身も、師や弟子や家族との出会いや別れ、「南無阿弥陀仏」の念仏との出遇いや被弾圧など、さまざまな喜びや悲しみに遭遇しました。不安や恐怖に襲われることもあったことでしょう。そんなとき、親鸞聖人には念仏がありました。生きていく歩みのなかで、不安や恐怖に立ちすくみそうなときも、聖人は常に念仏を忘れませんでした。念仏は不安を鎮めるための呪文ではありません。私を支える念仏。念仏があるからこそ、縁に生き、吉凶禍福交差する人生を生きていけます。
いついかなるときも私と共にある念仏。阿弥陀如来は、生きとし生けるものへ念仏を与えてくださっているのだから。すべての人々に念仏に出遇ってほしい。念仏を称えながら生きてほしい。教えに触れながら生きてほしい。まだそれが叶わずに苦しんでいる人が大勢いる。そのことに対する「かなしみ」と、教えを伝え得ぬ自身への「かなしみ」が、親鸞聖人にはあったのです。
南無阿弥陀仏