善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや
〔『歎異抄』第3章より(『真宗聖典』627頁)〕
「善人でさえも往生できるのだから、悪人が往生できるということは言うまでもないことです」
所感
人は、自分のことを「善」と思ってしまいます。
言い合い・喧嘩・戦争は、善と悪との戦いではありません。善と善との戦いです。「私の方が正しい」という主張のぶつかり合いです。お互いに自己の正当性を主張して譲りません。自己の正当性、つまり(自分にとっては)善。自分を善に置いています。その善と善とがぶつかり合って戦うのです。
仮に、あなたが言っていることが100%正しいとしましょう。あなたの主張を相手にぶつけます。あなたが正しければ正しいほど、その主張をぶつけられた方は逃げ場を失います。そうすると、余計にあなたに反抗するか、自分を傷つけるしか道がなくなってしまいます。あなたがどんなに正しくても、あなたが正しければ正しいほど、相手を傷つけるものです。そのことは知っておいた方がいいと思います。
言い合い・喧嘩・戦争とは対極の「仲良し」ということを考えてみても、共通の敵がいるからこそ表向きの仲良しを演じられるということもあります。また、仲良しが集まると、必然的に仲間外れを生み出すという現実もあります。
「善人」って、善い人のように思うけれど、「善」の背景には、相手を傷つける闇が潜んでいます。
「悪人」って、悪い人のように思うけれど、「相手を傷つけている私」であることを知っている私であることを意味します。
「悪」とは、ルールを破ったり、人のものを盗んだり、人を傷つけたり、人を殺してしまうことを意味するのではありません。
私はルールを守っている、人のものを盗んだことなんかない、人を傷つけたことなんかない、人を殺すなんてするはずがない。そう思っている人はたくさんいることでしょう。
けれど・・・本当にルールを守っていると言い切れますか? そのルール(約束事や法律など)も、一部の人の関係性の中で作られたものです。ルールを守ることによって、その関係性から外れる人々を苦しめている現実もあります。
あなたがそこにいるという事実は、そこにいられない誰かがいるという事実を含んでいます。たとえ物は盗んでいなくても、その人の居場所を奪っているかもしれません。
誰も傷つけていないつもりかもしれないけれど、あなたのことを想って悲しみ(慈悲)の涙を流してくれている人がいるものです。私のためにこころ痛めてくれている人がいる。その事実に気付けない私は、その人の想いを傷つけているのではないでしょうか。
「あいつさえいなければ」「あいつが邪魔だ」「あいつ鬱陶しい」と、誰かを否定するようなことを考えたことはありませんか? ということは、その人の存在を認めていないということです。つまり、想いの中で人を殺(あや)めているのです。行為としては殺していなくても、想いの中で、知らないうちに人を殺めているものです。
これだけ書き連ねると、ちょっとつらいですね。
でも、人が人として生まれ、人として生きていくということは、このような事実があるのです。あなたは、その事実を知らずに「善」として生きますか? それとも、そのような私であるという「悪」の自覚を持って生きますか?
だからと言って、「善」を捨て、「悪」の自覚を持つ人になりましょうというのではありません。私たちの本質はいつまでも「善」なのですから。「悪」の自覚を持ったと喜んでいるそのことが「善」に陥るのです。私は「悪」の自覚を持った。他の人はまだ「善」だ、と。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」・・・善人でさえも救われるのだから、悪人が救われるのは言うまでもない・・・つまり、生きとし生けるものすべてが救われるということを説いています。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とは、救われるためにどうあるべきかを説かれた言葉ではなくて、人間の本質に気付いて欲しいという親鸞聖人の、阿弥陀如来(真宗のご本尊)の願いです。
私が生きているということは、いえ、亡くなってからも他人(ひと)に迷惑をかけるものです。それはごまかしきれない事実。でも、その事実に目を向けないで、周りの人々を悲しませるだけ悲しませながら生きていきますか? その事実の痛みを抱えながら生きていきますか?
親鸞聖人からのメッセージは、亡くなって後の救いを説いているのではなく、今生きている私の在り方を問うています。
南無阿弥陀仏