私が無駄に過ごした今日は、

私が無駄に過ごした今日は、
昨日死んだ人が痛切に生きたいと思った一日である。

今日はどんな一日だった?

今日は何をして過ごしましたか? 
充実した日、「今日は無駄に過ごしたなぁ」と思うような日、「忙しくて慌ただしい一日だった」と流されて過ごす日もあります。
私がどのような一日を過ごしたにしても、今日という一日は、亡くなった人にとっては生きることができなかった一日です。そんな大事な一日を、果たして私はどのように過ごしているでしょうか。

「今日は無駄に過ごしたなぁ」と思うような日がある反面、無駄に過ごしてはいけないという強迫観念にも、現代人は追われているような気がします。
動く歩道やエスカレーターを歩く人、短い間隔で運行される電車、よりスピードアップを目指す交通機関…。スピードを求めるのは、時間を有効に使いたいという思いでもあり、無駄な時間を嫌っていることの表われなのかもしれません。
しかし、出してしまったスピードには、それを緩めるための時間もまた必要なのです。スピードを出せば出すほど、止まるための距離や時間が必要なのです。つまり、無駄をなくそうとして、かえって無駄を生み出したり、より危険性が増したりしているものなのです。現代、「都会」などと呼ばれている所に住んでいる人は、無駄を嫌って、無理をしているのかもしれません。
動く歩道や電車を例えに出しましたが、目に見えてスピードがあるものに限らず、生活に関わるものすべてにおいて、スピードを求めていないでしょうか。便利さの追求も、その想いの一面です。その結果、かえってしんどい想いをしていませんか?
「無駄に過ごした」「無駄にしてはいけない」とか「充実していた」「これだけのことをやった」とか、それらは私の主観に過ぎません。無駄がダメで、充実しているのが良いとも言い切れません。
「私が無駄に過ごした今日は、昨日死んだ人が痛切に生きたいと思った一日である。」という言葉をいただいて、一日の大切さを感じてくださる人もいると思います。しかし、「無駄に過ごしてはいけない」という戒めのことばとして受け止めるだけでは、生きていることが窮屈になってしまいます。昨日死んだ人も、そんな一日を生きたいと思ったのではないことでしょう。もう一歩踏み込んで、言葉をいただきたいと思います。

縁を生かされている私

この世のそべての事柄は、縁によって起こります。お釈迦さまは、「縁起の道理」を説かれました。さまざまな事柄や生きとし生けるものすべてが複雑に絡み合う縁の中で、私は私となりました。自分の力で生きてきたつもりでも、何一つ自分ではなし得ていないのです。何かひとつの事柄、ひとりのいのちが欠けただけでも、私はいません。
自分にとって都合の良い出来事は「いいご縁をいただいて」「○○のおかげで」と喜べますが、都合の悪いことを「ご縁をいただいて」とは言えないものです。しかし、良いも悪いもすべてひっくるめてのご縁をいただいての「私」です。
すべてひっくるめてのご縁を生かされているという事実と向き合うと、すべての出来事に意味があることが知らされます。自分で頑張った事柄だけではなく、つらく悲しい出来事にも、忘れてしまいたい現実にさえも。いのちにおいて、無駄なことは何一つありません。

諸行無常のいのちを生きている私

形あるものは必ず滅し、いのちあるものは常に「死」に向かっての「生」を歩んでいます。お釈迦さまは「諸行無常」と教えてくださっています。
自分の手の平を見つめてください。何も変化がないように見えますが、細胞レベルでは刻一刻と変化し、生まれ変わっているのです。仮にあと一年生きたとして、今の私と一年後の私とでは、細胞が全て入れ替わり、全く別人になっているそうです。いのちは、それほどの勢いで生まれかわり死にかわりしているのです。
細胞レベルで生まれかわり死にかわりしている個体自身も、やがて死を迎えます。有限ないのちを生きています。しかし、我が身が滅ぶ故に、新しいいのちが芽生えることができるのです。「諸行無常」というと、冬枯れの悲しさを連想しますが、いのちは諸行無常であるからこそ、子も生まれ孫も生まれ、花も咲き実も結ぶのです。穏やかな春の日の誕生のイメージでもあるのです。
有限ないのちを生きているという事実と向き合うと、日や方向の善し悪しを気にしたり、迷信に惑わされたり、「死」を忌み嫌うことがどれほど無駄なことか気付かされます。「死」も含めての「生」であり、誰にでも訪れる「死」は、「生の証(あかし)」です。

どうか教えに出遇ってください

縁起の道理を生き、諸行無常のいのちを尽くしている。それが「いのち」です。
生まれ、老い、病み、死が訪れる。ことばにすればこれだけの事実に、人間は迷います。しかし、それでも「いのち」は生きています。老い、病み、死んでも、「いのち」は生きています。この厳粛な事実を忌み嫌い、我が目をふさいで生きています。どれだけ「いのち」を無駄にしていることでしょう。
でも、迷いの人間という器は、阿弥陀さまの慈悲を受け容れるための器でもあります。だからこそ、身の事実に迷い苦しみながらも、生ききることができるのです。
昨日死んだ人、私に先立って生き尽くされた人は、「いのち」の真実の姿を、私に目覚めさせてくれます。
南無阿弥陀仏