仏智うたがうつみふかし

仏智うたがうつみふかし
この心おもいしるならば
くゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし

〔「仏智疑惑和讃」(『真宗聖典』507頁)〕

試訳

仏の智慧を疑うという罪は、とても深いものです。
このような罪深い心を思い知ったならば、
後悔・懺悔のこころを常に大切に持ち続け、
このような私をも救いたいと願ってくださる仏智に身をまかせて生きていけるようになる時が、きっとやってきます。

所感

平等を望みながらも、平等とはほど遠いこの世の姿。人は、平等を望みつつも、他人より優位であろうとするのですから、仕方のないことかもしれません。
仏智…阿弥陀仏は、生きとし生けるものすべてをすくいたいと願われました。生きとし生けるものすべてが救いの対象です。あの人は頑張っているからといって、特別扱いをしたりはしません。この人は悪いことをしたからといって、見捨てたりはしません。阿弥陀仏の願いに、分け隔てはありません。このような平等のすくいを、「仏智」と言います。

阿弥陀如来の救いの光明に照らされているにもかかわらず、そのことを疑う私がいます。
阿弥陀如来の救いは、疑いを持っている者にも向けられています。だからこそ、安心して生きていけます。

「仏智の不思議をたのむべし」…仏智を頼りとしなさいと命令しているわけではありません。誰に対しても仏智が注がれているからこそ、頼みとして生きていくことができるようになるときが、いつか必ず、誰の身の上にもやってくる。誰にも必ず…その想い(確信)が、「仏智の不思議をたのむべし」と、親鸞聖人に言わしめているのです。

身近なことで考えてみましょう。人生において、師と仰げる人に出会えるか否かは、一生を大きく左右します。師と仰げる人なんていないと言う人もいるかもしれませんね。しかし、既に会っているのです。親、先生、先輩…。目上の人ばかりが師とは限りません。子、生徒、後輩…。
私を守りたい、助けたいという温もりに包まれて、今、私は生きています。
私を頼りとしてくれている真剣な眼差しを受けて、今、私は生きています。
しかし、そのことに気づいてない私。鬱陶しく感じてしまう私。有り難さを感じられない私。
かけがえのない師に、大切な友に出会えていないと、淋しく感じているかもしれません。でも実は出会いにかこまれています。
苦悩の中にいるとき、ふと温かい眼差しを感じることがあります。そのとき、今まで経験したこともないようなホッとした気持ちが起こります。熱くて、それでいて優しい、私の思いを越えた、こころの奥底から湧き出るホッとした気持ち。そのように湧き出る気持ちを、親鸞聖人は「不思議」と表現されたのではないでしょうか。
つらくて悲しくて、目の前が真っ暗闇で、先が見えなかったのに、一筋の光明が見える。
温もり・眼差しを感じられるのは、すでに温もり・眼差しの中を生きているから。
一筋の光明を見られるのは、すでに私に向かって光が射しているから。

外からの仏智と、内からのこころの動きが重なって光が生じます。
仏智だけでは、なにも起きません。
疑いの衆生(人間)だけでも、なにも起こりません。
今まで、多くの人を疑いの目で見ていた。さまざまなことを疑いの対象としていた。そのことを思い知り、悔いるこころが私に芽生えたとき、そこに、救いの光が見えてきます。
今までの苦悩が取り除かれるわけでもなく、今までの生き方が変わるわけでもありません。でも、なにかが違います。師が、友が、仏智が、常に一緒です。

疑いのこころは、無くしたいですか? 無くしたほうがいいのでしょうか?
「うたがう」ということは、阿弥陀と衆生に接点がなければできないことです。接点のないところに、うたがいは芽生えません。接点があるからこそ(出会えているからこそ)「うたがう」こころが起こります。
「うたがう」ことは、悪いことではありません。無くさなければいけないことでもありません。私には、疑うことしか出来ないのです。「信じている」と口にしても、そこには疑いのこころが含まれています。「愛しています」「お任せします」「頼りにしています」そう思った瞬間、疑いが生まれています。それが私です。
今の私の行いや考えを正すことが、阿弥陀仏に帰依することではありません。今の私の行いや考えに目覚めたときに初めて、懺悔(さんげ)のこころが生まれます。その懺悔のこころがあって、仏智に身をまかせることができます。
南無阿弥陀仏

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