二つの白法あり、よく衆生を救く。
二つの白法(びゃくほう)あり、よく衆生を救(たす)く。
一つには慙(ざん)、二つには愧(き)なり。
〔『涅槃経』より(『真宗聖典』257頁)〕
父王さえいなくなれば・・・
釈尊在世の頃、インドの王舎城(おうしゃじょう)に阿闍世(アジャセ)という王子がいました。アジャセは性悪で殺戮を好む粗暴な性格の持ち主でした。アジャセは頻婆娑羅(ビンバシャラ)父王を殺害し、王となります。
しかしアジャセは、父王を殺した後、後悔の心から熱を生じ、その熱は全身に瘡(かさ…できもの)を生み出しました。その瘡の悪臭は誰も寄せ付けないほどのものでした。
アジャセは言います。
「今、私は父を殺した報いを受けている。遠からず必ず地獄に堕ちるに違いない」と。
看護する母の韋提希(イダイケ)はあらゆる薬を塗りましたが、瘡は治るどころか、いよいよ増すばかりでした。
「母よ、この瘡は身から生じたものではありません。私の心から生じたものです。ですから、いかなる人もこれを治すことはできません」
このようなアジャセに対して六人の大臣たちは、さまざまな言葉によって彼を癒そうとします。
「罪を犯したものは地獄に堕ちるというけれど、かつて誰が見てきたというのですか」
「出家の者において父を殺すことは罪ですが、国を治める者において父を殺すことは罪にはなりません」
「父王を殺して王位に就いた者は数多くいますが、その中の誰一人として地獄に堕ちた王はいません」などと言い、アジャセ王は愁い悩む必要はないのだと慰めました。そして大臣たちは、優れた思想家を紹介し、その教えを求めることを勧めました。
アジャセは言います。
「私の瘡がどうして癒えることがあるだろうか。わが父王は、慈愛あふれ、憐れみ深く、罪のない人でした。私が生まれる前に占い師は、この子が生まれればきっと父を害すると答えたという。けれども父は私を大事に育ててくだされたのである。そのような父王を殺した私の身も心も、どうして痛まずにいられようか。その思想家たちが本当に私の病を治してくれるといいのだが(私はそうは思えない)」
アジャセは誰にも会おうとしませんでした。
二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。
耆婆(ギバ)という医者が、苦しむアジャセに語りかけます。
「アジャセ王よ、仏陀釈尊は常にこうおっしゃっています。『二つの尊い教えが、人を救うのです。一つは慙、もう一つは愧です』と。慙も愧も、どちらも〈はじる〉という意味です。「慙」は内に向かって自らをはじること、「愧」は他者に対して自らをはじることだと説きます。この慙愧の心こそが、人を救う尊い法なのだとおっしゃっています」
六人の大臣はアジャセ王に「あなたは悪くない」と慰めました。しかし、ギバは言います。
「アジャセ王、あなたは罪を犯した。しかし、今のあなたには慙愧の心があります。その心があるからこそ、あなたは救われます。どうか仏陀釈尊にお会いになってください」と。
それでも釈尊に会おうとしないアジャセに、天から声が聞こえてきます。
「アジャセ王よ、速やかに仏陀釈尊に会いに行きなさい!」
「天より聞こえる声は誰ですか?」アジャセは尋ねます。
「アジャセ王よ、私はあなたの父ビンバシャラである。あなたは、ギバの意見に従い、速やかに仏陀釈尊に会いに行きなさい!」
その声を聞いてアジャセは気絶します。身の瘡は増え、悪臭は前にも増してひどくなりました。
アジャセの気絶。それは病状の悪化を表わすのではなく、悩み苦しみの果てに、心の奥底にある仏心がはたらき出したことを表わします。これほどまでに苦しんで、初めてアジャセから執着の思いが消え去りました。
アジャセの姿を察知した釈尊は言います。
「アジャセ王のために、私は涅槃に入りません」と。
それを聞いた弟子の迦葉(カショウ)は驚いて尋ねます。
「釈尊よ、一切の衆生を救うために涅槃に入らないと言うべきではないのですか。どうして父王を殺したアジャセのために涅槃に入らないとおっしゃるのですか!?」
「カショウよ、あなたは思い違いをしている。私の『アジャセ王のため』という思いは、一切の罪を犯した者に及ぶのです。一切の煩悩を持つ衆生に及ぶのです。煩悩があるからこそ衆生というのであって、ないものは衆生とは言わない。アジャセはその代表である。私はそのアジャセを救うまでは涅槃に入ることはできぬ」
そのように言うと釈尊は、アジャセを念じつつ慈悲の光明を放ちました。その光明に照らされたアジャセ王の体からは全ての瘡が治癒されたのでした。
無根(むこん)の信
瘡の癒えたアジャセは、ギバに問います。
「ギバよ、釈尊はどうしてこの光明を放たれたのであろうか?」
「アジャセ王よ、この光明は王のために放たれたものと思われます。あなたは、自分の身心を治療する者はいないと歎かれた。それで釈尊はこの光明を放って、先ず王の身を治し、それから心を救おうとされるのです」
「釈尊が私のようなものを念じてくれるのであろうか?」
「例えば七人の子を持った親が、七人に対する心に違いはないけれど、しかし病める子には特に慈しみの心が深くなるようなものです。衆生に対する思いに違いはないけれど、罪あるものには特に慈悲の心が深くなるものです」
アジャセは釈尊のもとへ向かい、釈尊に語ります。
「釈尊よ、私は伊蘭子(いらんし)より伊蘭樹(いらんじゅ)を生じる〔悪臭を放つ樹の種から、悪臭を放つ樹が育つ〕ところは見てきましたが、伊蘭子より栴檀樹(せんだんじゅ)を生じる〔悪臭を放つ樹の種から、芳香を放つ樹が育つ〕ところを見たことはありません。しかし、今、私は初めて伊蘭子より栴檀樹が生じるところを見ました。伊蘭子とはこの私のことです。栴檀樹は、私の心に芽生えた無根の信のことです」と。
(『涅槃経』のお話はここまで)
「無根の信」・・・根っこのない信心。信心は自分が起こすものだと思っていませんか? 私が起こす信心は、物事がうまくいっていれば気にも留めないし、うまくいかないときは「信じていたのに」と愚痴が出ます。そのような信心は、信心とは言いません。アジャセに起きた信心のように、生じるはずのないところに生じてこそ信心なのです。自分が意識して起こすものではありません。信心など持ち得ないこの私の身に、信心が芽生えるのです。信心は賜わるものです。
親鸞聖人は、衆生は煩悩多い生き物であると教えられます。その煩悩を消すことが大切なのではなく、煩悩盛んな我が身であるという自覚こそが必要であると説かれます。このように煩悩盛んな衆生こそ私が救おうと阿弥陀如来は願われています、と。
聖人の教えに触れた者は誰もが迷います。「どうせ私は煩悩にまみれた人間ですから」「煩悩を持ったままで良いのだろうか」「そうは言うけど、やはり煩悩はないほうが良いに違いない」と。煩悩持つ身であることを言い訳にしたり、煩悩持つ身であることに落ち着けなかったりします。
なぜ落ち着けないのでしょうか。『涅槃経』の話を読んで、釈尊の弟子のカショウと同じように、アジャセを特殊な人間だと思い違いしてはいませんか? 「悪い奴がいるものだなぁ。苦しんで当然だ」って。アジャセとは、この私自身のことです。教えを聞いても、自分を抜かして聞いてしまうのです。私たちの煩悩理解には『涅槃経』で教えられる「慙愧」の心がありません。「慙愧」の心なく聖人の教えを聞いているから迷います。
聖人は、煩悩とは「煩は、みをわずらわす。悩は、こころをなやます」(『唯信鈔文意』)と教えられています。煩悩持つ身であるという自覚は、身を煩わし、心を悩ますものなのです。煩悩の自覚があったとき、必然的に、アジャセのように苦しむものなのです。どうしてそれほどまでに「慙愧」できるのか。それは、我が身を照らしてくださるはたらきが、今、現にあるからです。そのはたらきを阿弥陀といいます。
我が身を照らされている。だからこそ、信の芽生えるはずのないところに信が芽生えます。念仏称えるはずのない私が、南無阿弥陀仏と念仏申す私となります。
「南無阿弥陀仏」