現世利益和讃

ある日のお朝事、繰り読みの「和讃」は「現世利益和讃」(『真宗聖典』487頁)でした。

南無阿弥陀仏をとなうれば
 この世の利益きわもなし
 流転輪回のつみきえて
 定業中夭のぞこりぬ

南無阿弥陀仏をとなうれば
 梵王帝釈帰敬す
 諸天善神ことごとく
 よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば
 四天大王もろともに
 よるひるつねにまもりつつ
 よろずの悪鬼をちかづけず

南無阿弥陀仏をとなうれば
 堅牢地祇は尊敬す
 かげとかたちとのごとくにて
 よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば
 難陀跋難大龍等
 無量の龍神尊敬し
 よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば
 炎魔法王尊敬す
 五道の冥官みなともに
 よるひるつねにまもるなり

傍らで聞いていた若坊守(妻)から、「お念仏は除災招福のためのものではないのに、親鸞聖人はどうして “南無阿弥陀仏をとなうれば” の和讃をたくさん書いてるの?」と質問を受けました。
南無阿弥陀仏をとなうれば」の響きは、「念仏を称えたならば」、つまり「もし念仏を称えるという条件を満たしたならば」と、聞こえるのではないでしょうか。しかし、それならば「南無阿弥陀仏をとなえれば」と書かれるはずです。
南無阿弥陀仏をとなうれば」は、条件や仮定としての「ば」ではありません。「~するときは いつも」とか「~するときは きっとそうなる」という確定の意味を持つ「ば」なのです。
「住めば都」という言葉がありますが、「もし住んだならば都となる」という仮定の話ではありません。「住むと きっと都(住みやすい場所)となる」という確定を表わします。
親鸞聖人が著わされる「南無阿弥陀仏をとなうれば」もまた、確定を表わしています。つまり、「南無阿弥陀仏をとなえるということは、諸々の神々がお守りくださり、諸々の悪鬼はひれ伏す」といった旨のことを聖人は詠まれています(文章にすると仮定と確定のニュアンスが分かりづらいですが…)。
だとしても、現世利益(念仏申した後のご利益)を詠んでいるように聞こえるかもしれません。親鸞聖人が言われる“現世利益”は、「お念仏申したら、こんないいことがあるよ」と言っているのではありません。
「念仏申すご縁をいただいたこと、そのことがご利益なのです。すでにしてご利益をいただいているからこそ、念仏申すことができるのです」と仰っているのです。
「諸々の神々がお守りくださる」とか「諸々の悪鬼がひれ伏す」ということも、「念仏称えた者に訪れる良いこと」として挙げているのではありません。念仏を称えるということと同時に、神々に守られ、悪鬼がひれ伏すということも起こっているのです。
親鸞聖人は、阿弥陀如来を頼りとし、ただ念仏申せと説かれましたが、「阿弥陀以外の諸仏諸神は信じるに値しない」と言ったり、土地土地で崇められている神々を否定されたり、私を迷わせる悪鬼を追い払えと言ったりということはありません。それら諸仏諸神、悪鬼もまた、念仏申すご縁をくださった阿弥陀如来に収まるものとみておられたことと思います。
ご縁をいただいてある身であること。その目覚めが、南無阿弥陀仏のご利益です。
南無阿弥陀仏