小慈小悲もなき身にて 

小慈小悲(しょうじしょうひ)もなき身にて 
 有情利益(うじょうりやく)はおもふまじ 
 如来の願船(がんせん)いまさずは
 苦海(くかい)をいかでかわたるべき

〔「愚禿悲歎述懐和讃」(『真宗聖典』509頁)〕

悲しみのなかにいるのならば、悲しんでいる他者(ひと)への思いやりが芽生えてもよさそうだけれど、それができません。
悲しんでいる私は、恵まれた他者(実は恵まれたように見えているだけのことなのですが)を嫉(ねた)みます。
私は、「悲しみが和らぎました」と語る他者に対して嫌悪感を抱き、「その程度の悲しみだったんだね」と蔑(さげす)んだりもします。
同じような境遇に置かれ、同じような悲しみのなかにいる他者に対してさえも、「私の悲しみの方が大きい」と悲しさ比べをしてしまいます。
今、私は、こんなにも悲しんでいる。それなのに、いつの日かその悲しみや悲しんでいたこと自体を忘れてしまう。
悲しみそのもののつらさもあるけれど、悲しみのなかで他者を嫉(ねた)み、蔑(さげす)み、悲しさ比べをし、悲しんでいたことさえも忘れてしまう。そのことこそが悲しい。
悲しいけれど、それらはみんな私の姿です。

けれど、悲しみのなか、私が本当にひとりぼっちになってゆくならば、私のそんな姿に気づくことはありません。私の姿に気づくことができたのは、私を映し出す教えに出あえたから。私を照らす阿弥陀如来に出遇えたから。

阿弥陀如来は、嫉むことなく、蔑むことなく、比較することなく、やがて私のことなど忘れることもなく、私を救うために共に悲しんでいます。阿弥陀の悲しみ…慈悲なくして、どうしてこの悲しみの海を渡ることができるでしょうか。
ひとりぼっちの世界に閉じこもって悲しんでいる私は、私のことを倦(あ)くことなく悲しみ続けている阿弥陀の大慈悲に出遇い、我が身を知ることができました。悲しみをなくすことに懸命だったけれど、悲しみも含めた私のことを、阿弥陀如来は見てくれていました。
「悲しまれている私」の自覚は、阿弥陀如来をの感じ得ることでもありました。
南無阿弥陀仏

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