如来大悲の恩徳は

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

〔「正像末和讃」(『真宗聖典』505頁)〕

このご和讃は「恩徳讃」と呼ばれ、つどいや法話会の閉式の際に唱和されます。

阿弥陀如来の大悲の恩徳は
身を粉にしても報ぜずにはいられません
お釈迦さまや導いてくださる祖師たちの恩徳も、
骨をくだいても感謝せずにはいられません。
(真宗大谷派宗務所出版部発行「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌同朋唱和勤行集」より)
素直に現代語訳すれば、上記のようになります。しかし、私は違ういただき方をしています。

生きるということは、人それぞれの苦悩があります。苦悩を抱えながらも生きていく姿、その姿自体、「身を粉にしても」「ほねをくだきても」の姿です。つまり、私たちの生き様は既に、「身を粉にしても」「ほねをくだきても」生きていることを体現しているのです。
「阿弥陀如来の大悲の恩徳に、身を粉にするほどに報じましょう」「師主知識の恩徳に骨を砕くほどに感謝しましょう」と言った場合、「信じたから、恩に報いる」「有り難く思ったから、感謝する」という受け取りになってしまします。ということは、「信じられないから恩に報いられない」「どうしてそれほどまでに感謝しなければいけないのか」という否定・疑問・自己肯定が生じます。
あるいは、消えることのない苦しみに、「これだけ恩に報いているのに、これだけ感謝しているのに、なぜ苦しまなければならないのですか」と、報恩の想いを翻しかねません。私たちが思い立つ報恩や感謝には、そのような危うさがあります。

宗教を頼りにするといっても、我が身を中心において、より良い境遇を願う我執があります。これだけのことをしているのだから、報われて当然。自分の行いに対して、利益・対価を得ようとすることが、果たして信仰でしょうか。

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし(そうなるべき縁がもよおすならば、どのような振る舞いでもせざるをえないのです)」と説かれた親鸞聖人。
この言葉は、親鸞聖人と弟子の唯円さんとの会話に出てきます。
「聖人の仰せならば、私は背きは致しません」と言う唯円に、聖人は「人を千人殺して来なさい」と命じます。「それはできません」と唯円が返せば、「人を殺さないのは、善い心を持っているからではありません。また、決して殺害はしてはいけないと思ったとしても、殺すということもあるかもしれないのです」と聖人は説かれます。
このお話を紹介すると、「人を殺すことはよくない」「人は、もっと強い心を持っている。戦争や殺人を避けることもできる」と反論されることがあります。しかし、想いを超えた縁を生きているのが私です。戦争や殺人を避けることができたとしたら、それは、戦争や殺人を犯さずに済むご縁をいただいたということなのです。それにこのお話は、殺害の是非や縁の仕方なさを伝えるための言葉ではありません。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という聖人のことばは、「ここに、人がいる」 そのことに気付けよ! ということばなのだと感じるようになりました。

「縁起の道理」を説かれた釈尊。「縁を生かされて生きている私の姿」を説かれた親鸞聖人。釈尊と親鸞聖人の教えの背景には、「ここに、人がいる」という響きが感じられます。
「ここに、人がいる」。何を言っているんだと思われるかもしれません。しかし、そんな当たり前のことに気付かずに、自分さえよければいという生き方をしているではないですか。人(いのち)というものが、全く見えていないではないですか。
「ここに、人がいる」自覚によって、人に優しくなれるなどと訴えようというのではありません。さまざまな縁が織り成す人生模様の中を生きている私たち。嬉しく、楽しいことばかりではありません。つらく悲しいこともあります。悲しみは忌避し、楽しいことを求めますが、そのことは生きている事実を覆い隠すことではありませんか。

「恩徳讃」試訳

私を、悲しみもろともに包みこんでくださる阿弥陀如来の大悲。
私に先立って、いのちを生ききられた師主知識。
それらの大地があるからこそ、
私は、悲しみのままに生きていける。
「ここに、人がいる」ことを感じながら。
その姿は、身を粉にするほどに一生懸命で、
骨をくだくほどに重く尊い。

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