第22話(最終回) 京に帰り 人生を振り返り 浄土に還る

 弁円をはじめ、数えきれないほどの人々との出遇いをいただいた関東時代の親鸞聖人。60歳を過ぎた頃、親鸞聖人は関東を後にし、生まれ育った地、京の都へ戻る決意をします。人生50年と言われた時代。既に60を超えられた聖人にとって、いのちがけの決断です。
 
 京に戻った親鸞聖人のもとに、ある日、関東で聖人の教えをよりどころとした同行が訪ねてきました。現代のように交通機関が発達しているわけではありません。十余カ国の国境を超えて、関東から京に向かい、そしてまた関東に帰るということは、いのちの危険を伴います。それほどまでにして聖人を訪ねなければならないことがあったのです。
 教えを説く人がいなくなれば、時と共に、教えはいろいろな解釈がなされてしまいます。そのことを不安に思った同行が、聖人に今一度 教えを乞うために入洛されたのでした。
 同行に向かって、聖人は語られます。
 「お念仏申して、地獄へ行くのか、浄土へ参るのか、私にはわかりません。私は、法然上人がお念仏を申されるお姿に出遇い、この方についていこうと決心しました。ご上人がお説きくださった念仏のおしえが、たとえ地獄へ落ちるお念仏であったとしても、後悔はありません。一生を尽くしても出あるかどうもわからない お人と教えに出遇うことができました。そのことが、私に念仏を申させてくださるのです。ただそれだけのことです。私の想いを聞いて、念仏を続けるのもやめるのも、あなたたちおひとりお一人のお考えしだいです。南無阿弥陀仏」
 
 他を恨み、人生を闇夜にしていたのは、自分自身のこころであった。そのことに気づかせてくださったのが親鸞聖人でした。その事実にあらためて向き合った同行は、いのちがけで国に帰り、聖人のおことばを伝えました。南無阿弥陀仏の念仏と共に。
 
 しかし、それでも関東では、聖人のお姿を求める方々がおられます。その様子を伝え聞き、聖人は、念仏の教えを説くために、ご子息の善鸞さまを関東に向かわせようとします。聖人のもとで数多く教えに触れてきた善鸞さま。しかし、善鸞は関東へ行くことを拒みます。父、いえ、お念仏を大事にされていのちを尽くされる親鸞聖人のおそばを離れたくなかったのです。
 
「父上、私は父上と離れたくはありません」
 善鸞のことばを聞き、越後への流罪の際、自身が法然上人に訴えかけた想いを思い起こしていました・・・「私も、あの頃は善鸞と同じ気持であったなぁ。しかし、流罪を縁として、越後や関東の人々とも遇うことができた。そして誰よりも、家族として縁をいただいた恵信尼や善鸞、覚信尼たちとの出遇いの有り難さに気づくことができた。その気づきに、善鸞よ、あなたも身をもって目覚めてほしい」・・・
 
「善鸞よ、私もあなたと別れたくはありません。しかし、たとえどこにいても、たとえどのような境遇に身を置こうとも、念仏を称えることにおいて、阿弥陀如来の御前に、私たちはいつも一緒なのですよ。南無阿弥陀仏」
 そう言いながら聖人は、自身が法然上人から言われたことを思い返していました。
 
 聖人のことばを胸に関東へ戻った善鸞。しかし、親鸞聖人との再会を願っていた人々は、善鸞のことばに耳を貸そうとしません。父からの教えを必死に伝えようとしますが、その想いはなかなか伝わりませんでした。
 私の話を聞いてほしい…。善鸞は、「私は、あなた方が親鸞聖人から聞いたことのない教えを知っています。私しか知らない教えがあります」と語り、人びとの気持ちを惹きつけようとしました。
 そのことばを信じ、善鸞のもとへ集まる人々。善鸞は、自分が父から聞いてきたことを懸命に伝えます。しかし、懸命に、まじめに伝えようとすればするほど、善鸞として 教えを広めたいという欲望にかられます。ついに善鸞は、聖人が語っていないことまでも語り始めました。
 
 善鸞が説く教えは、親鸞さまが説かれる教えとは違うのではないか…。そのような疑問を持つ人々が出てきました。
 そのことを聞きつけ、親鸞聖人は歎きます。そのようなことをさせてしまったのは、関東に遣わせた私の責任です。しかし、どのような境遇においても、阿弥陀如来の御名のもとにおいて、人は共に生きている。その真実に目覚めてほしい。そのためには、私を頼るこころを捨てなければいけません。別れにおいて真(まこと)に出遇ってほしい。親鸞聖人は、息子 善鸞を義絶します。怒りによる義絶ではありません。あらためて出遇い直すための義絶です。
 
 親鸞聖人は、善鸞の苦しみを我がこととして受け止めます。いのちある限り、迷いの広い海に沈み、人に注目されたいと惑う人間の姿を凝視します。このようなこころを抱えるからこそ、阿弥陀如来はこの私を包むように抱いてくださっているのでした。その想いを伝えるために、聖人は筆を執ります。『顕浄土真実教行証文類』や「和讃」など、聖人の著作の大半は、晩年に京都で書かれたものです。
 弘長2(1262)年、親鸞聖人は90歳の生涯を閉じられ、お浄土へ還られました。