第13話 教えと人と場と

 苦悩を無くすべく修業に努めていた善信(親鸞)
 苦悩を抱えたままで生きていける道を説く源空(法然)

 求めていたものと全く正反対の方向に道が開かれていたことに善信は驚きを感じます。阿弥陀如来を信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を称える源空上人の姿を見て、「この人についていこう」と決心します。上人との出遇い、念仏との出遇いの喜びを、善信は語ります。

 法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう
 (たとえ師 法然上人にだまされて、お念仏を称えて地獄におちたとしても、後悔はありません)

 源空上人が教えを説く吉水の草庵には、多くの民衆が集まりました。狩りをする者、漁をする者、その家族の姿が多く見られました。自分たちが生きるために、他のいのちを奪わなくてはならない。誰もがそうなのですが、実際に自分の手でいのちの温もりを感じている者にとって、その罪悪感は比べものになりません。他のいのちを奪う葛藤や苦悩を、聞いてくれる人も場もありませんでした。比叡の山で修行をするということは、家族や生活を棄(す)てて山に入るということです。しかし、家族を棄てて山に入るわけにはいきません。結局、葛藤や苦悩を抱えたまま、日々の生活を送っていました。そのような人々にとって、源空の草庵は、まさによりどころでした。 
 実際、源空の草庵に集うのは、狩猟を生業とする人たちばかりではありませんでした。日々の生活の中で苦悩を抱え、よりどころのないままに生きてきた人々が、源空のもとに集いました。狩猟を生業とする者や民衆だけでなく、武士や貴族も足を運んでいました。身分・貧富・性別・年齢の別を超えて、源空のもとに集りました。その中に、後に善信の妻となる 恵信尼の姿もありました。

 阿弥陀如来を信じ、南無阿弥陀仏と念仏を称える衆生を、阿弥陀如来はお救いくださいます。南無阿弥陀仏(源空上人)

 日々の生活の中でできる行、お念仏。教えの内容のすばらしさもあったでしょうが、何よりも、多くの罪悪を作りながら生きている私までも受け入れてくれる教えと人と場があった。そのことの感動に、人々は惹きつけられたのでした。
 しかし、源空上人が説かれるおしえを、よくは思わぬ人々もいました。