第11話 闇を照らす光

 長い間暗闇だった部屋が明るさを取り戻すまでに、どれくらいの時間がかかるだろうか。暗闇であったのと同じだけの時間がかかるのか。いや、どれだけ長い間暗闇であったとしても、そこに光が射したならば、部屋は瞬間に明るくなる。
 苦悩の世を生き、自身の迷いのこころに縛られてきた。その時間がどんなに長くても、そこに光が射せば、たちまち人生に光明が満ちてくる。
 だからといって、暗闇そのものがなくなったわけではない。光は、接するものがあって初めて光の事実が現れる。接するものとは、私の迷いのこころ。迷いがあるところに、光が満ちてくる。暗闇そのものがなくなったわけではない。状況はなにも変わらない。けれど、迷いのこころ…自身に向き合うときに初めて、光を、阿弥陀の慈悲を感ずる。その光は、自身に向き合った者だけを射すのではない。光は、生きとし生けるもの すべてを照らしている。今までずっと。その光を感じることなく、苦悩に沈み、迷いに埋もれている私。しかし、暗闇を作り出しているのは、実は私であった。苦悩を取り除くことによって明るい人生を求めていた。けれど、苦悩あるからこそ、光を感じることが出来る。
 
 親鸞聖人の師 源空上人は、一切の経文を何度も繰り返して読むうちに、善導大師の『観経疏』の一文に出遇われました。
 
 一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問わず。念念に捨てざるをば、これを「正定の業」と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに。
 
 一心に弥陀の名号を専念し、唯だ南無阿弥陀仏。何度も読んだはずなのに、あるとき、この一文が上人の目を奪いました。親の仇に対する怨みを消すことに努めていた上人。怨みを消せない自分を許せない上人。が、怨みを持ったままの私を待っていてくださる光があった。阿弥陀如来の慈悲の光明にすでに照らされていた。そのことに気付かぬ私であった。
 唯だ南無阿弥陀仏。源空上人43歳、専修念仏の道をあゆむことに、こころが定まりました。
 
 月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ(源空上人)