第3話 出家得度

 1181(養和元)年 春、京の町には桜が咲き乱れています。
 鴨川の河原に腰を下ろし、幼い親鸞は景色を眺めています。桜の美しさにこころ奪われるのは、老若男女問いません。感動は つい口からこぼれます。
「あぁ、なんて美しいんだろう」
 しかし、視線を下げると、戦乱や飢饉で亡くなった人々の亡骸が視界に入ってきます。
「桜のように、美しく輝くいのちもあれば、亡骸となり、誰もが遠ざけるいのちもある。この違いは、どうして生まれるのだろう…」
 心地よい陽ざしを浴びながらも、暗い気持ちが幼い親鸞のこころを覆います。
 
 桜と、その根本に横たわる亡骸を見つめながら、ある想いが湧いてきます。
「明日とも知れぬいのちを生きているのは、桜も、人も同じ。桜は、散っても桜。たとえ枯れてしまっても、桜であることに変わりはない。それは人も同じ。死しても、人であることに変わりはないではないか。いのちの違いはどうして生まれるのだろうなどと問いながら、その違いを生み出しているのはこの私ではないか。桜は、人のこころに感動を生み、いつまでもこころに残る。戦や飢えによって亡くなった人々も、きっと誰かのこころに残っているに違いない。終えるいのちのおかげで、そこに新たな生が生まれる。私も、桜のように、誰かのこころに残る生き方、誰かを生かす生き方ができないだろうか」
 比叡の山での修行に憧れを抱きつつも、踏み出せずにいた幼い親鸞は決心します。
 聖人9歳の春、伯父範綱のはからいで、青蓮院の慈円和尚の元で出家得度し、範宴(はんねん)という名前をいただきました。
 

前の記事

第2話 比叡山への道