第17話 越後流罪
「承元の法難」により流罪の身となった親鸞聖人。僧籍を剥奪され、還俗させられ、藤井善信という罪名が付されました。当時、僧侶となることは、いわゆる国家資格のようなものでした。その資格を奪われ、還俗させられた。このことは一見屈辱のようですが、親鸞聖人にとって、新たな一歩を踏み出させる出来事でした。
「私だけならまだしも、師 源空上人までも流罪に処す朝廷やそれに仕える者は許せない。しかし、流罪の身となり、還俗させられたことによって、初めて仏道を求めるものとして歩みだすことができた。とはいっても、一度は世間のしがらみを憂い出家した身。そのような私が、今さら世間の人々の中に入れてもらうというのも、おこがましい話だ。俗世間でも生きられず、出家者としての道も閉ざされた。もはや僧でも俗人でもない、中途半端な人間となってしまったわけだ。このような非僧非俗の身を、私は生きよう」と決意され、「愚禿釈親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と自ら名告(の)られました。
「愚」愚かで、「禿」道を求める心もないのに僧侶となった者…決して卑下して名告られた名前ではありません。流罪によって師との別れに直面し、そこで初めて「南無阿弥陀仏」の念仏の教えの有り難さに気が付いた。これほどの出来事に遭わなければ、大切なことに気づけぬ私であった。そのような目覚めが、「愚禿釈親鸞」という名告りとなったのです。
流罪の地 越後は、京の都とは比べ物にならないほど寒く、土地は荒れ果て、過酷な自然の猛威にさらされた地でした。越後の人々は、そのような過酷な環境の中、必死でいのちを繋ぎ生きていました。流刑人は、始めの年は米と塩が支給されますが、2年目以降は自給自足で暮らしていかねばなりません。遅れて越後の地にやってきた妻 恵信尼や子供たちのためにも、親鸞聖人は慣れない畑仕事に努めます。
坊さんの格好をした、畑仕事も手慣れぬ、見慣れない男に、越後の地の民衆は興味を持ち始めます。「どうしてこんな所に来た?」「罪深い人間を救う教えがあるのか?」越後の地の民衆との交流が少しずつ芽生えてきました。