第15話 念仏の教えへの弾圧

 「ただ念仏」の専修念仏の教えに帰依された親鸞聖人。しかし、専修念仏の教えをよりどころとされたのは、聖人だけではありませんでした。身分・貧富・性別・年齢の別を超えて、すべての人々に開かれた念仏の教え。当時の仏教が朝廷や貴族を相手に開かれていたのに対し、源空(法然)上人の教えは、民衆にも開かれていました。源空上人の念仏の教えは、多くの人々に、瞬く間に広まっていきました。
 しかし、勢力を拡大する源空上人の吉水教団を快く思わない人もいました(もっとも、源空上人には、勢力を拡大する意思などまったくありませんでしたが)。そのひとつが、比叡山の僧侶たちでした。
 山に籠り、厳しい修行に努めることで悟りを得ようとする者にとって、「南無阿弥陀仏と念仏申せば、阿弥陀如来がお救いくださいます」という専修念仏の教えは、危うく、許せないものでした。
 言いがかりに近い非難もありましたが、民衆の人気を背景に、自分勝手な専修念仏の教えを説く僧侶(源空上人の門弟)がいたことも事実です。
 この状況を憂慮した源空上人は、『七箇条制誡』を書き、門弟たちを戒め、署名させます。親鸞聖人も「僧綽空」の名で署名されています。
 騒動は治まったかのように思われましたが、比叡山からの抗議の翌年 元久二(1205)年には奈良の興福寺から「興福寺奏状」が出されます。源空上人の教団の過失を九ヵ条挙げ、念仏の禁止を朝廷に申し出たのです。
 しかし、源空上人の専修念仏の教えに帰依していたのは民衆だけではありませんでした。貴族や朝廷の中にも、教えに帰依する者が大勢いたのです。いくら抗議が出されても、源空の教団に大きな処分が下されることはありませんでした。
 ある事件が起こるまでは…。